青物横丁医師射殺事件
1994(平成6)年10月25日
写真≫        コメント


1994(平成6)年10月25日早朝、京浜急行の青物横丁駅で改札口に入ろうとした泌尿科医長の東康弘医師は、会社員・矢崎道也(36)に至近距離から「トカレフ」で撃たれた。東医師は、病院に搬送されたが翌日の26日午後、出血多量で死亡した。

矢崎は高校卒業後、都内の電気機器メーカに勤めていた。勤務態度は真面目で仕事熱心だった。自宅は埼玉・浦和市(現・さいたま市)で母親と二人暮しだった。そんな、矢崎に転機が訪れたのは1992(平成4)年10月頃だった。この頃、矢崎はヘルニアで悩んでいた。治療のため通院していたが、一向に回復はしなかった。このため、1993(平成5)年6月7日に入院し手術を受けた。この時の執刀医が東医師だった。

術後の経過は順調で、退院後の通院も必要はないほど回復した。だが、暫くすると全身の倦怠感や食欲不振、内臓に何か詰まっているような不快感を覚えた。1994(平成6)年になって益々体調不良が続き、内臓のあちこちに痛みが走るようになり、勤めも休みがちになった。

矢崎は、執刀医の東医師を疑うようになった。体中が痛むのは、手術の際、手術用具を体内に置き忘れたからだと思うようになった。そこで、矢崎は東医師に面会した。東医師は苦笑いしながら、矢崎の訴えを否定したが、一応レントゲン検査を実施した。その結果、どこにも異常はなかった。

だが、矢崎は信じなかった。きっと自分の体内に手術用の鋏やピンセットが残っているはずだ。それなのに東医師はミスを認めたくないから異常がないと言ったのだ。そのように思い込んだ矢崎は、死ぬ前に東医師に復讐してやると犯行を計画した。


矢崎は、駅の人込みの中で襲撃することを計画した。だが、銃はどのように入手すればよいのか分からなかった。9月になって、病院の近所に暴力団事務所があることを思い出した矢崎は、思い切って訪ねてみた。

応対した幹部の竹井昇(29)は、矢崎の話を聞いて「トカレフ」銃と実弾7発を140万円で売った。「トカレフ」を手にした矢崎は、いよいよ犯行を実行するだけとなった。

矢崎は10月25日、浦和市の自宅からバイクに乗って東京の青物横丁駅に向かった。駅で張り込んでいた矢崎の目に東医師の姿が映った。矢崎は、東医師の背後から隠し持っていた「トカレフ」で撃った。東医師が転倒したのを見届けて、乗ってきたバイクで逃走した。そして、NHKや民放4社に犯行声明を送った。

警察は、東医師の身辺捜査を開始したところ、間もなく東医師に執拗に抗議を繰り返していた矢崎が浮上し指名手配をした。その3日後、矢崎はホテルを転々としていたが、金が無くなり母親に電話した。警察は畑中が母親に会うためJR南浦和駅に現れたところを殺人容疑で逮捕した。矢崎は過去に精神病歴があったため、精神鑑定にかけられたが、責任能力ありと認められ、1995(平成7)年2月に殺人罪で起訴された。

1995(平成7)年8月12日、東京地裁は懲役12年の判決。

1998(平成10)年8月6日、東京高裁で懲役12年の判決。
矢崎は最高裁に上告したが、2000(平成12)年7月、上告を取り下げ刑が確定。

トップページ≫